人体の不思議展から帰った後、あらためて
『死体を探せ!』布施 英利/角川書店(画像・リンク先は文庫版)を読む。人体の不思議展で展示されているプラスミック標本(本書ではプラスティーネーションと表記)を知ったのは、たまたまこの本を手にしたからだ。もともとの本には副題でバーチャルリアリティ時代の死体と付いている。出版は1993年、今やバーチャルリアリティという言葉は時間に流れに消えていった。インターネット前に悪趣味・グロテスク方向に走る時期があり、その中に死体ブームもあった。ある意味、一番死体が隠されていた時期の本だ。
この本を紹介するのは著者の経歴を書くのがわかりやすい。本の帯には東京芸術大学大学院修了。現在(この本を出版している時は)東京大学医学部助手(養老孟司研究室)専攻、美術解剖学とある。死体消え去った現代社会に、再び死体を目にする必要を書いている。面白いのは美術史や映画に登場する死体を取り上げ、各作品がどう死体を表現していったかを解説していることだろう。
今、読む返すと江戸時代の話が引っかかった。戦国時代までは死体を表す作品があったのに、江戸に入ると消えていく。その代わりに浮世絵や枕絵が登場してくるという話。浮世絵や枕絵はバランスがおかしい。男性器が巨大に描かれていたりする。これは江戸から身体感覚が消えいき、代わりに脳のイメージを表現するようになったとのこと。これで読んで、エロアニメを見る人がまったく分からなかったけど、少し理解した気になった。エロアニメの絵てもの凄くバランスが悪い。なんでこれに興奮するのか分からなかった。体じゃなくてイメージなんだ。なるほど。
人体の不思議展の始めの標本の周りは、見ている人のテンションは高い。きっとそれは自分の中の脳内のイメージを目の前の標本に重ねてしまうからだろう。だがやがて慣れて、次々と標本を眺めていくと肉体そのものに興味が行くようになってくる。それは本物であるがゆえに今までのイメージを払拭してしまうのだろう。見えなくて拡張されていく妄想が消え去る瞬間なのかもしれない。
また、一時期流行った蓮コラを思い出す。蓮と肉体をコラージュするともう全身の鳥肌が逆立つほどのショックを受ける。あれは脳の肉体に対する怖いというイメージを増幅させるのだろう。プラスミック標本は何体でもまったく平気だが、今でもこの画像はキツイので極力踏まないようにしている。
出版当時よりも死体を目にする機会が増えたが、イメージに行く人達と身体に帰る人の差が大きくなった気もする。増えたというより広がった感じがする。
読書後、もしも、これからプラスミック標本を使ってイメージに訴える作品を作る人が現れたりしないかなと思う。全然、美術に詳しくないのでもしかしたら本物を使うことは反則かもしれない。でも、アーチスト自身がパフォーマンスすることを作品して許すなら成立しそうだ。もちろん倫理上問題があって、それを許さない人が沢山出そうだ。
例えば、偉大な芸術家が「自分が死んだ後この右腕をプラスミック標本で加工して、図に示してあるように配置するように」と遺書を残したらどうなるんだろう。アインシュタインの脳みそが展示されているのだがら、有名な芸術家だったら成立しそうだ。もしこれを見て否定するはずが、何かを感じてしまったらどうするのだろう。ま、否定する人の大半なんて見ないし、見る前に決めつけている人だけど。
人体の不思議展でCTスキャンのように横方向に輪切りした標本がある。それをドミノのように並べている。標本という意味なら切った部分を見せるのが正しいだろう。ただ、輪切りにしたモノを並べることにより「切る」というイメージが増幅される。これを見て、もっとやりたいと思う人が出てきてもおかしくはない。
なんてことを考えていたら上岡龍太郎が死んだら剥製にしてもらうという話を思い出した。